体調不良で内科に行ったら「適応障害」だった数年前の話 前編

みなさんは、学生時代就きたかった職についていますでしょうか?あるいは、食べていくために違う職に就いていますでしょうか?

キラキラした思いで学生時代になりたかったデザイナーを一般職から目指し、一度心が折れた人間の話を取り止めもなく書かせていただきます。

とはいえ、仕事がきつくて、、、センスに打ちのめされて、、、というよりは主に人間関係なので、デザイナー目指しているかたは話半分で「こういう職場があったんだ」と思っていただけると。

そしてあくまで私の主観で書いている文章だと言うことを踏まえていただけると幸いです。

 

「スタートラインがみんなより遅い」焦り

中学時代、友人のイラストを飾って喜ばれたことが楽しくて、デザイナーを目指すようになりました。でも当時は美術大や専門に通いたいと思いながら、親の「まずは普通の大学に・・・」を説得できず、当時好きだった歴史が学べればいいや、と歴史学科がある国立大に進学しました。

その後「お金を貯めてデザインの専門学校へ通う」という目標を立てた私は大学の勉強もそこそこにバイトをし、正社員を1年し、念願の専門学校へ。

入ると、ほとんどみんな、5歳若い。

当時は自分の5年間はなんだったんだと思い、コンプレックスのかたまりでした。今思うと歳なんて関係なく、スタートラインは一緒だと思うのですが、当時の私はとても焦燥感を覚えました。

誰よりもできなきゃ、誰よりもがんばらなきゃ。でも学費満期足りない働かなきゃ。

この焦りが後々自分を追い詰めていくことになります。

地方の専門学校→東京へ

焦りがあった私は、「地方より色々吸収できそうな東京に」という謎な思想から、東京を中心に就職活動をはじめました。

変なプライドがあり、「東京でデザイナーやってます」みたいな称号が当時欲しかったんだと思います。

天より高いプライドはさておき、ここでも歳のコンプレックスが邪魔をして、とにかく早く、就職しよう、その一心で活動をしました。

これも後々自分を追い詰めていくことになります。

結局私は最初に決まったところにすがるように就職しました。在学中の9月のことでした。色んなことに追われるように11月から東京に移動、就職し、働き出しました。26歳の時でした。

卒制は作品のみ提出して、許可をとり卒業旅行・卒業式の日はおやすみをもらいましたが、それ以外は一心不乱に働きました。
その分、地方でのんびり授業受けている子達に勝っていると思っていたのでしょう。本当は誰かと比べてどうこうな話じゃないのに。

職場環境に目をつぶっていた

焦ってとにかく受かったところに就職した会社は、すごくデザインが上手い同期がいる以外は、職場環境については実のところ良くなかったです。

私の配属は東京支社となり、別に本社がありました。東京支社は、私以外は30代のディレクター1名、40代のデザイナー2名。後に同期が入りますが、私が4人目とかなり少数でした。

仕事より人間関係がかなり劣悪で、40代のデザイナー2名(男女)が居ましたが仲が最悪で、どちらも強烈でした。
女性の先輩は声のボリューム調整ができない方で、喋るたびに男性が舌打ちをしていました。「うるせーなババア」とかも普通に言ってました。

私は男性の先輩のチームに配属されました。最初は暴言を吐かれるのではないかとドキドキしていたのですが(のちに女性の先輩も望んでいたとチクチク言われました)が、そんなこともなく、半年もすれば、ちょっとぶっきらぼうに扱われる以外は普通に帰りに飲みにも行く仲の良い先輩・後輩になれました。

思えばスタートが遅い焦りがあった自分にとって「ここでチームの先輩とうまくやらないと失敗してしまう」という思いがあったのだと思います。

今思えばそこからが地獄の始まりでした。

 

男性の先輩と仲良くなったあとも、失敗を遅れつつ焦っていた私がカスガイになれるはずもなく先輩二人は仲が悪いままでした。

私を挟んで席の両隣で、大きな声で話かけてくる女性の先輩と、それに対して舌打ちや暴言で答える男の先輩。今思い出しても胃が少しキリキリします。

ディレクターは仕事が回ることが優先なので(別にそれは問題じゃありません)、「耐えてくれ、カスガイになってくれ」と言うばかり。男性の先輩が持ってきた仕事の比重が大きく、私が反旗を翻すことで男性の先輩が辞めるのを恐れていたように思いました。

ディレクターと女性の先輩からのチクチク攻撃

 しばらくして、色々面白くなかったのでしょう、女性の先輩にちくちくと言われるようになりました。

挨拶を無視されるのもたびたびあったり、「同期ちゃんはなんでも出来るけど、yayuさんは喋るしかできないよね〜w」と馬鹿にされたり。

「私がその歳の頃にはもっと仕事できてたよw」とか、

私は一言で言って仕舞えばデブなのですが、体型に関しても馬鹿にされることが多く、誰かと比較して、こちらを見ながら「〇〇さんはまだまだ細いよ〜」とかもありました。

今思い返しても腹が立ちます。

ディレクターからも、「〇〇大出てるのにわからない?」や「〇〇大出てるからこれくらいわかるか」と少し小馬鹿にしたように(私の感覚ですが)言われたり

デザインをしていきたいのに、ディレクターからはデザインは辞めてディレクター候補になるように(アートはつきません、あくまでディレクターです)言われ同期にデザインらしい仕事を降っていったり

私は動画編集が少し出来るのですが、動画の案件が来た時に私ではなく、動画をしたことない同期に無理やり振ることもありました(案の定、私は同期に自分の業務の時間を割いて教えることになりました。)
最初のチーム分けmtgの時に、本社で仲良くしていた男性の先輩が「yayuさん動画できるんでyayuさんチームに入れた方が」と聞こえるように言ってくれたのですが「あー・・・・」と濁して、そのまま流しており、明らかに不自然な感じだったのを覚えています。

耐えきれなった社員旅行の消灯後。先輩のAさん

ストレスがたまりにたまっていたのでしょう、本社も含めて行った社員旅行で、消灯後、一人海を眺めながら泣いてしまった時がありました。

なんで泣いたかは覚えてなくて、とにかく何かが辛い、会社にいたくないと思っていました。デザイナー向いてなかったんじゃないかとか。でも辛いけど歳のこともあるしがんばらなきゃって思ってました。
ずっと、年齢が突き刺さって自分を苦しめていました。

そのとき偶然本社の人に見つかり、おそらく私を落ち着かせるためだと思います、急に1週間本社に出向になりました。

そう、本社の人も、東京支社がヤバイと知っていたんです。

そんな衝撃を受けつつの本社生活1日目。1泊だけエースのAさんの家に泊まることになりました。

この先輩はとても良い方で、1晩中、私の取り止めのない話を聞いてくださって、「そっかあ、そっかあ」と時折優しい相槌をうちながら聞いてくれました。今でもこの泊まった夜は思い出すと心がじんわりとします。

この先輩がいなかったら、そのまま実家に帰っていたかもしれません。
早く楽になりたい、デザイナーをやめたいと思っていたけれど、これがきっかけで先輩にデザインのこと色々聞くようになり、デザインすることの楽しさを取り戻しました。この先輩の存在が、今でも私をデザイナーとして働かせているのだと思っています。

突発性難聴になる

1年目の終わりくらいに、突然耳が痛み出すようになりました。
古き良きデザイン会社だったので毎晩11時まで残っても仕事があるくらいだったのと、責任者であるディレクターと良好な関係ではなく言い出せず、病院にすぐにはいけませんでした。(自分の身を自分で守れませんでした)

でも耳の違和感が凄まじかったので、無理やり許可をとり、1週間後に病院に行きました。ストレス性の突発性難聴でした。

もう少し遅ければ、右耳の聴力がすべてなくなるところだったと言われました。数年立ちましたが、今でも右耳の聴力は半分になったままです。

この時のこととても公開しているので、みなさんは耳に異常がある時は早めに病院へいった方が良いです。本当に。

ちなみに会社に報告したところ女性の先輩に「私もストレスあるんだけど?」、ディレクターに「お疲れ」と言われてさらに耳が遠くなりそうだったのをおぼえています。

そしてさらに辛い出来事が待っていました。

男性の先輩の退職と仕事量の増加

2年目に入った時でした。男性の先輩が「やめる」と言い、持っている仕事を全部私のみに引き継いでやめました。

その頃、私は紙のデザインも自分で持てるようになりつつ、隙間なんてないのにWEBの仕事もやっていました。そこに先輩の仕事が全部きました。

シリーズ総ページ400近いカタログもありました。ベテランの先輩でさえいっぱいだった仕事なのに、むりやり引き継がれました。

さすがに無理だと伝えました、が、「サポートするからがんばれ」と言われました。

校正の方の手配はしてくれましたが、実務のサポートはほとんどありませんでした。さらにチーム会議で、私のチームに降られたメンバーは同期1名、そして新卒1年目の(2ヶ月目)の1名、計2名でした。

今考えても正気の沙汰とは思えないメンバーですね。本社の仲良い人からも心配の連絡がきてました。

でもこの時は「これを成し遂げたら私は年齢相応になれる」という呪いにかかってました。自分で自分に呪いをかけてました。

息抜きとして地元の友達に頻繁に「シネばいいのに・・・」って電話してました。

死ぬ気で成功させた案件、同時に体調の変化

案件は、死に物狂いで努力した結果、色んな人(主に本社の人)に時間を開けてもらって、とにかく終わらせました。

今同じことをやれと言われても無理です。とにかく死ぬ気でした。

間に入っている代理店さんがとにかく優しく寄り添ってくれたのもあると思います。本当に頭があがらない。

一番しんどい仕事が始まってから、日曜日は一日動けないほど消耗していました。気力もなく、ご飯を用意するのもめんどうで、お風呂も着替えもめんどうという日が続きました。

同時に、耳鳴り、吐き気、めまいなどが職場で起こるようになり、この頃作業中でも、クライアントとの電話でも、時と場合にかかわらず号泣することもありました。
あまりに続くので、仕事の合間を塗って、近くの内科病院に行かせてもらいました。

 

この内科に行くことがなければきっと人生に失望してデザイナーも何もかも投げ出していただろうなと思いますが、長文になったので、それは後半にまとめようと思います。